文学アクセサリー『空のうたたね』

イルカになりたい・・・

カルメン~メリメ『カルメン』より~


文学は、文章を読むことが嫌いな人には無縁だ。

だから、古典の先生が「源氏物語」を講じている時間は、苦痛の記憶でしかなかった。
 
古典は、死んだ言葉だ。もう蘇ることもないのに、無意味なことだ・・・
 
僕にとって古典の先生は、時代遅れのタイプライターを自在に操り、それを自慢しているようで滑稽に見えていた。
 
文章を読むことが苦手な者にとって、国語の授業は、密閉空間だった。
酸素が奪われ、息苦しく、ただ、解放されるまで、じっと耐えなくてはならなかった。

銀杏の葉 ~ゲーテより~


僕も成長して、大きくなった。
 
大きくなったら、苦手なものは、自然と得意になると思っていた。
けれど、それは空想だった。
 
『現在』という時代は、残念ながら、文章を読むことが苦手な人には生きづらいようにできている。
 
僕はイルカになりたい・・・その世界に文章がないから・・・そう、子供のころに思っていた。
 
文章という鎖につながれた僕は、もう成績が関係ない年になった頃に、(文章とは何なんだろう)と考えるようになった。
 
それから、小さい頃、やり残したことを取り戻そうと、図書館に向かい、絵本を借りるようになった。
 
すぐに文字が読めるようになったわけではない。やはり血のにじむような努力をした。
 
そうして、本が読めるようになった時は、自分自身に震えた。
そして、その文で語られている言葉にも、震えた。
 
そして、小さな頃の自分にも、それを教えてあげたいと思うようになっていた。
 
けれど、文章の苦手な子供に、文章で伝えようとしても、何も伝わらないだろう・・・
 
意思を伝えるための道具は、「言葉」や「文章」だけではない。
それは、「言葉」や「文章」が苦手だった、あの頃の僕がよく知っていた。
 
だから、僕は、 文学を原作にアクセサリーを作る。
 
アクセサリーを身に着けて、何かが変わるだろうか・・・結局、無くても死にはしない。
古典を知って、何かが変わるだろうか・・・結局、無くても死にはしない。
 
意思を伝えることとは、「アクセサリー」を身に着けることが無意味だと感じる人に、その価値を伝え、 また、「古典」を無意味だと感じる人に、その価値を伝える事なんだと思う。
 
人は、人に触れることができる。
けれど、人の心には触れることはできない。
 
心に触れることができるのは手ではなく、音楽や言葉・・・
 
そう・・・ 文学とは、心を乗せる車のひとつである。
そして、そのような車がなければ、僕はどこへも行けやしない。
 
Paody